「民 際」 と 「共 生」 な 眼 で 世 界 の 中 の 日 本 に 思 い を は せ て ・・・

にしゃんたとは!?

s-1110.jpgJ.A.T.D.にしゃんた (J.A.T.D. Nishantha)  

Web nishan.jp 
E-mail infoアットnishan.jp (※アットを@にしてご使用ください)
京都府名誉友好大使 ・ 多民族共生人権教育センター理事 
 
1969年7月18日生まれ
スリランカ/キャンディー市の出身

趣 味:落語・太極拳・空手・ラグビ−・陶芸・読書・映画鑑賞・執筆活動
資 格:全国空手道連盟公認四段・拳法二段・全日本空手連盟指導員・柔道初段・日本語能力試験一級・大統領ボーイスカウト(President Scout:スリランカ)など

プロフィール
 
1987年に、ボ-イスカウトの一員として、高校時代に初来日。いったん帰国するも、その直後に父が家を担保にして拵えてくれた7万円と片道切符を手に再来日。滋賀県阪本の青木さんや大勢の方々にお世話になりながら日本での第二の人生がスタート致しました。
 
雄琴温泉で布団引きやお風呂掃除のアルバイトをしながら京都YMCA日本語学科で日本語を覚えた。先生らの熱心なご指導のおかげで、来日1年で日本語能力試験一級試験に合格出来ました。
 
新聞奨学生を4年間務めながら大学に通った。大学時代は、勉強と平行して、空手や日本拳法を学んだ。在学中に全国空手道連盟公認四段と指導員の資格を取得。また在学中は、出場した全ての外国人弁論大会で優勝し『スピコン荒らし』のあだ名がついた(笑)。
立命館大学を学部総代で卒業させて頂きました。
 
大学院在学中には、在日少数言語を使う人々を対象に多言語で情報を発信するための携帯電話ポータルサイトなどを運営を目的に株式会社グローバルコンテンツを仲間と共に立ち上げ、初代の代表取締役をさせて頂きました。その後、経済学の博士号取得し、山口県立大学准教授を経て、2010年より羽衣国際大学で准教授となるご縁を頂きました。
 
2005年10月5日に日本国籍を取をきっかけに、次の活動について本格的に模索始めました。
 
2008年には、2050年代の京都が題材になった映画「地球のヘソ」で主演俳優デビュー、
2008年に「ワッハ上方」にて落語デビュー
2009年に「初代社会人落語日本一決定戦」で準優勝をさせて頂きました。
 
現在、大学教員のお仕事と、テレビ・ラジオ出演、執筆活動をさせて頂いております。
また、全国で「多文化共生」「人権」「男女共同社会参画」や「子育て」などのテーマで講演させて頂いております。難しいこともいかに楽しく笑いの中で伝えるとこをモットーにしております。
 
社会人落語日本一決定戦の準優勝をさせて頂いたことで、おかげさまで落語付き講演会の舞台も増えて参りました。
 
「多文化共生"新"時代」や「違う人との出会いは学びと成長のパスポート」などがもっとも得意とする講演テーマです。
 
着物をひっさげて落語つき講演会で日本全国を回らせて頂くのが現時点でもっとも生きがいを感じる時であります。
 

社会人落語初代日本一決定戦の準優勝と日本への恩返しをかねて、全国の献血ルームで開催する「にしゃんた献血落語会」をスタートさせて頂きました。 

 

現在の出演番組

 
●J:COM北摂 『ごきげん☆ちゃんぷる』 メインパーソナリティー
 
 
主な出演番組
 
● KBS京都 『ダルコロ』メインパ-ソナリティ-
● 毎日放送 『ココリコ海上火災』リポーター『Come on! NAMBA』
● 毎日放送 『たかじんONEMAN』・『あつまりーな大阪』 リポーター(特番)
● テレビ大阪 『??? (はてな)』レギュラーリポーター
● 関西テレビ☆京都チャンネル『京都グルメナイト』司会進行
● 関西テレビ☆京都チャンネル『極上・京都グルメガイド』司会進行

● CS 京都チャンネル『京都葵祭り』(コメンテーター)
● NHK 『とっておき関西』『ぐるっと関西おひるまえ』 など

 
学歴
 
● 京都YMCA日本語学で学ぶ(日本語能力試験一級を取得)
● 立命館大学 経営学部  学士号を取得 経営学部総代卒業
● 名城大学 商学大学院 修士号を取得
● 龍谷大学経済学大学院 経済学修士号取得
● 経済学博士号 取得 (2003年)
 
主な著書・活動履歴
 
● 『留学生が愛した国・日本』単著、現代書館。
● 『Japanese Management in Sri Lanka ー
   reality or wishful thinking?』,単著Karunaratne & sons Sri Lanka.
● 『日本的経営は海を越えられたか!? 』単著, ふくろう出版。
● 『スリランカからのことづけ』共著(ビデオ作品),2005年3月,One-Asia・Hot-Heart。
                          中央経済社。
●  『The Distant Neighbors』共著,Sri Lanka Association of Economics.
● 『未来経営』「隣国スリランカと日本への期待」単著,フジタ研究所。 など
  

朝日新聞の取材を受けさせていただきました。

ありがとうございました。

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01 片道切符で第二の人生  【にしゃんた コラム】

02 はじめの一歩 【にしゃんた コラム】

03 ジャパニーズ ドリーム 【にしゃんた コラム】

04 静かな夜 どこがやねん 【にしゃんた こらむ】

05 友との再会 【にしゃんた こらむ】

06 日本のプールにて 【にしゃんた こらむ】

07 野球 バンザイ! 【にしゃんた こらむ】

08 日本語って ほんま難しい 【にしゃんた こらむ】

09 ご馳走 それよりバナナ食べたい 【にしゃんた こらむ】

10 片思い 日本とスリランカ  【にしゃんた こらむ】

11 アイ ラブ KYOTO  【にしゃんた こらむ】

12 にしゃんた 入院日記 その1 【にしゃんた こらむ】 

13 にしゃんた 入院日記 その2【にしゃんた こらむ】

14 Woman  【にしゃんた こらむ】

15 Woman その2 おしんの罪 【にしゃんた こらむ】

16 にしゃんたの武士道 その1  【にしゃんた こらむ】

17 にしゃんたの武士道 その2  【にしゃんた こらむ】

18 留学生の長老 【にしゃんた こらむ】

19 幻の修士論文 【にしゃんた こらむ】

20 風邪をひいて おもふこと【にしゃんた こらむ】

21 カンドー シマシタ【にしゃんた こらむ】

22 僕、大学教員になっちゃった【にしゃんた こらむ】

23 カルチャーショックな思い出 【にしゃんた こらむ】

24 専属スタイリスト募集 【にしゃんた こらむ】

25 物質文明の迷子 【にしゃんた こらむ】

26 3つの壁 【にしゃんた こらむ】

27 京都人 【にしゃんた こらむ】

28 それは思い込みとちゃいまいか? 【にしゃんた こらむ】

29 それを食べたい  【にしゃんた こらむ】

30 スリランカの「泥棒」と大阪で再開 【にしゃんた こらむ】

31 結婚したくなっちゃった 【にしゃんた こらむ】

32 物乞いをする人々 【にしゃんた こらむ】

33 自殺したかった人は、いま 【にしゃんた こらむ】

34 スリランカの日系企業に入ってきました 【にしゃんた こらむ】

35 体温を感じるアジア経済を教えたい 【にしゃんた こらむ】

36 公務員と女子大生 【にしゃんた こらむ】

37 [dig] TV スペシャルに出演です! その2 【にしゃんた こらむ】

38 [dig] TV スペシャルに出演です! その1 【にしゃんた こらむ】

39 甘い紅茶の向こうに  【にしゃんた こらむ】

40 牛車と日本の中古車 【にしゃんた こらむ】

41 公務員と女子大生 【にしゃんた こらむ】

42 僕はだれか 【にしゃんた こらむ】

43 彼女の笑顔のために 【にしゃんた こらむ】

44 にしゃんた、走る! 【にしゃんた こらむ】

45 飲みに行くのは寂しいから 【にしゃんた こらむ】

46 遠野へ、河童を捕まえに 【にしゃんた こらむ】

47 日本とスリランカ 宗教事情 【にしゃんた こらむ】

48 僕に名前をつけてください 【にしゃんた こらむ】

49 関西弁を操るスリランカ人の僕 【にしゃんた こらむ】

50 日本の箱 【にしゃんた こらむ】

51 酒もタバコも 【にしゃんた こらむ】

52 懐かしき思いで 【にしゃんた こらむ】

53 「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わない国 【にしゃんた こらむ】

54 坊ちゃん、スリランカの旅 【にしゃんた こらむ】

55 にしゃんたの京都ひとり歩きその1岩清水八幡宮・男山の竹 【にしゃんた こらむ】

56 恋するルームメイト 【にしゃんた こらむ】

57 にしゃんたのグルメな夜 【にしゃんた こらむ】

58 博士になった日 【にしゃんた こらむ】

59 この春、スタートします 【にしゃんた こらむ】

60 人生居酒屋 【にしゃんた こらむ】

61 野菜は海を越えたらいかん  【にしゃんた こらむ】

62 小京都に教えてもらった 【にしゃんた こらむ】

63 にしゃんたの京都ひとり歩き 2 寺町通り・匂いに誘われて歩く 【にしゃんた こらむ】

64 やっちゃいました その1 【にしゃんた こらむ】

65 やっちゃいました その2 【にしゃんた こらむ】

66 鴨川のおもいで 【にしゃんた こらむ】

67 運転免許が欲しくて 【にしゃんた こらむ】

68 岡本さんの地蔵盆 【にしゃんた こらむ】

69 元祖アメリカ村に行ってきました 【にしゃんた こらむ】

70 スリランカ・サミット 【にしゃんた こらむ】


71 今年の夏はよかった 【にしゃんた こらむ】

72 3つのポスター 【にしゃんた こらむ】

73 国旗のお話 【にしゃんた こらむ】

74 茶碗虫 【にしゃんた こらむ】

75 2004年猿新の年日記 【にしゃんた こらむ】

76 そろそろ家がほしいな 【にしゃんた こらむ】

77 節分にお化け!? 【にしゃんた こらむ】

78 町屋を買うぞ!? 【にしゃんた こらむ】

79 町屋を借りたぞ! 【にしゃんた こらむ】

80 サリー&サロン 【にしゃんた こらむ】

81 日本語は難しい! 【にしゃんた こらむ】

82 地域通貨 【にしゃんた こらむ】

83 スリランカでの笑い話 【にしゃんた こらむ】

84 おばあちゃんを思い出す 【にしゃんた こらむ】

85 床で披露! 素人漫才 【にしゃんた こらむ】

86 経済学の授業で風呂敷を追っかけた 【にしゃんた こらむ】

87 いまだ続く名前の悩み 【にしゃんた こらむ】

88 ピース! 【にしゃんた こらむ】

89 かんざしと女性 【にしゃんた こらむ】

90 立ってするのは男だけ? 【にしゃんた こらむ】

91 バナナの葉っぱのお弁当 【にしゃんた こらむ】

92 久しぶりに会ったスリランカ人の友人 【にしゃんた こらむ】

93 もう一つの図書館  【にしゃんた こらむ】

94 J君との愉快な日々 【にしゃんた こらむ】

95 多文化共生社会つくりに当たっての己探し 【にしゃんた こらむ】

96 TSUNAMI―現場から日本へのことづけ 【にしゃんた こらむ】

97 おわりにー海の魚のように空飛ぶ鳥のように 【にしゃんた こらむ】

98 ○○大学様、貴大学で「京都学」を教えたい・・・ 【にしゃんた こらむ】
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御所南というゆりかごにゆられて [にしゃんた こらむ]

僕の日本との初めての接点は、一つのテレビドラマでした。そうです。「おしん」なのです。スリランカでの人気はあまりにも高くて、視聴率80%などはざらでした。 同じころ出合ったもう一つの日本。それは日本製の車です。一九七〇年代の末、スリランカの狭い道が日本の中古車でいっぱいになった。おしんのドラマの中には、車の「く」の字も登場しません。日本という国が二つあるのかと、世界地図を広げて友だちと真面目に探した時分が懐かしい。

同じ国だと分かると日本への興味が増した。経済的に貧しかった日本が短期間で車を作れるようになったのだと。今から考えると、スリランカにグローバリゼーションと資本主義経済を教えてくれたのは、ほかならぬ日本の中古車でした。日本に行きたいという夢をかなえてくれたのは親父だった。家を担保にしてお金を工面してくれた。そのお金と片道の航空券と小さなボストンバックで十八歳の僕は伊丹空港に降り立った。

だが、スリランカから持ってきた大金は、円に換えると七万円にしかならなかった。結局、日本語学校の月謝も払えず、お世話になっていた方から二万円を借金した。そのころは、おしんは、もういなかったけれど、心優しい日本人がたくさんいて、僕を大学の教員にまで育ててくれた。

日本は国際化しています。淡路島でタマネギ農家をやっているスリランカ人に会ったときは驚いた。二百万人近くの日本人が外国に、それと同じぐらいの外国籍の人が日本に住んでいる。昔、人は家と国は選べないと言われた。でも今は紛れもなく住みたい場所などは選べる時代なのです。

日本に住んで二十年がたとうしているのに飽きるどころか、毎日が浮き浮きして仕方無い。僕の生まれ故郷はセイロンと呼ばれていたが、その言葉は予期せぬ発見を意味する「セランディプティー」に由来する。僕にとっての日本はセランディプティーそのものです。

最近、僕は運命を感じ虜になったこの国で、自分が何をさせていただけるか一生懸命考えている。ちなみに僕の日本人の恩師は学生時代を過ごしたスリランカの紛争解決のために日夜奔走しています。

海の中の魚も空飛ぶ鳥も、どこからどこまでが境界線だと分かっていない。日本の若人にも狭い枠組みから開放されて大きく羽ばたき、人の幸せのために貢献してほしい。どこの国にも心温かい人たちがいる。心配することなど何もない。

今の僕は変わらず大学で助教授として経済を教えている毎日を過ごしています。日本への恩返しをかねて日本で政治家を志す想いが心に強く芽生えています。2005年末には、そのための前提条件であります日本国籍を取得しました。まだ、公表を致しておりませんが、一応、多原樹一(たはら・きいち)という日本名を頂きました。これらを機に私としましては、本格的に政治を志す決心をしています。その夢の実現に向けて一歩一歩確実に前に進みたいと思います。

地域社会の人々が取り組むべき事柄は国家レベルで留まらない。国境を越えて物事を考える時代です。政治の分野も例外ではないと思う。その意味合いにおいても国籍や文化背景を関係なくいろんな人々が集まったほうが良いと思う。それらもさることながら、日本人離れした日本人が議員さんに混じって混じってただただいるだけでもこの社会に対してそのこと自体が大きなメッセージを発してくれるのではないかと僕はむしろ客観的にその存在を見ています。この社会へ日本人離れした政治家という作品の実現のために、みなさんのご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。

骨を埋めるつもりでこの国のために役立ちたい。日本人皆さんが国際人をめざすなかで、僕は甚平が似合う日本家屋に住む普通のおじさんになるのが夢なのです。

 【新聞記事】


もうずいぶん時間が経ってしまったけれど、例の津波の件について。
あの日、「スリランカ、津波で大変みたいやで!」という友人からの電話で僕はそのことを知りました。半分疑いながらも、テレビをつけてみると、映像の一部は確かにスリランカのもの。急いでスリランカの自宅に電話をかけた。
「津波大丈夫?」
「私たちは山のほうやから大丈夫や」
実家が内陸のキャンディーだったので被害はなさそう。久しぶりに息子から電話があったことを喜んでいるようにも思えた。とりあえず、一安心。しかしそれからが大変。家の電話に、携帯電話に、パソコンに、津波を心配して下さった方々からの問い合わせが殺到する。その対応に追われました。
「何かするんやったら、声かけてや。協力するさかい」
ありがたいお言葉をたくさんちょうだいしましたわ。
まわりで一斉に募金活動が始まり、僕もお呼びがかかって、募金箱を持たされました。集まるお金がどのように使われるかもわからんまま、よろしくお願いします」と頭を下げた。ときには、隣で別の団体が募金活動をしていることも。通りがかりの方々も、どの団体に募金したらええんか、ずいぶん迷ってましたわ。僕はというと、日本人離れしている外見も手伝って、たくさんの人がお金を入れてくださった。
でもね、心のなかのどこかで、募金を頂くことへの抵抗感を感じていました。

ようやくスリランカに帰省できたのは、津波発生後40日が経ってから。到着するなり耳に入った情報で、驚きました。コロンボでバブルが発生。膨大な海外からの資金でルピーのレートがあがっているらしい。
支援活動が上手くいってるんか心配で、コロンボを出発。海岸に沿って、南に車を走らせました。このあたりはゴールデンビーチと言われていて、めっちゃ美しいんです。
海岸に立地する観光客相手のリゾートホテルが受けた打撃は大きい。でも、あらゆる意味でいちばん被害を受けたのは、漁師なんです。彼らのほとんどが、海岸線にバラック小屋を建てて住んでいた。家は流され、船は破損。親戚には大勢の犠牲者。そんな彼らに追い討ちをかけてんのが、スリランカ人の魚離れなんです。魚が津波の犠牲者の遺体を食べているという噂が立ち、気持ち悪がられてたんです。
道端には政府からの配給内容を記したポスターが張り出されていました。遺族には死亡者ひとりに付き15,000ルピー。生活を始めるために5,000ルピー。台所用品を買うために2,500ルピー。ひとり当たりの食事代として375ルピー。合わせて、テントや衣類の支援内容も書いてあった。配給場がたくさんの人で賑わっていた一方で、配給対象として認められなかったと嘆いている人もいました。支援を狙った詐欺も起きていて、政府も悩んでいるようやった。
家の復旧に取り掛かっているスリランカ人に混じって、外国人の集団も見受けられました。暑いなか上半身裸で作業に励んでいた。笑い声が絶えることもない。会社から休みをもらって支援をしているという青年に話を聞いたら、「惨事にも関わらず、スリランカの人たちから元気をもらった」。ボランティアは、してあげるだけではなくて、たくさんものが得られるということでした。

1週間、被災地を1800kmも車でまわった。悲しかったのは、いちばん会いたかった「日本」に会えなかったことです。スリランカの新聞で、日本の支援のことが報道されたのは1回だけ。外務大臣が金銭的な支援を申し出たという記事でした。せっかく多額の援助金をもらっても、被災者たちは日本の温もりを感じていない。日本は支援の仕方が下手ですね。
何かがあると、すぐに募金を集めようという発想をすることが、日本人の悪いくせですわ。それにせっかく集めたお金も、大使館に渡すだけ。それらは結局、日本政府が出した80億円にプラスされるだけなんです。これでは、バブルを起こしたり、詐欺を起こしたり、横流しされるだけ。本当の意味での支援にならない。
「国際交流」はもう古い。民際交流が求められています。ひとりひとりが自己責任においてお金を集め、現地に向かって一緒に汗を流すことが必要なんです。日本人が持っているぬくもりを伝えようとすることが、本当の支援だと思います。

 僕はマンション生活が長い。その僕が、京町屋に住みたいという夢が叶えられるまでは少し時間がかかりました。初めてそのお家を見せていただき、家の中庭で腰を下ろしたときのことです。なにかしら懐かしく、まるで子供の頃に引き戻されたような気持ちになりました。僕は17歳までスリランカで生活しているので日本家屋に懐かしさを感じるはずがない。僕は、二つ返事でこの家に住むことに決めた。この新居が僕にとっての日本とは何であるかを教えてくれる素敵な教科書になるとは、その時は、少しも思わなかった。
 
 なにを隠そうこの家は不便なところが満載です。例えばトイレに行くにも一旦家の外に出ないといけない。雨の日や雪の日は大変です。老朽化したお風呂はひどく水漏れをします。木造のこの家は、夏はたしかに風通りが良くひんやりしていて気持ちが良いが、冬には効率悪いと正直思う。隙間が多いので、全体を暖めようとせず、炬燵などを使って部分的に暖をとることが賢いと二,三度冬を越した頃にはいい加減に悟りました。なんだかんだ言ってもこの家が好きです。友人が遊びに来ても、庭を見ながらぽかっとしてなかなか帰らない。僕に限らず、日本人もこの家が懐かしいようです。
 
 実は、この家にはたくさんの仲間が住んでいます。霊感の強い友人によると、おばあちゃんの霊がついているようです。本当かどうかわからないのですが、今のところ何の問題も無いのできっと僕を守ってくれている良い幽霊さんにだろうと思う。実は、目に見える友達もいるのです。ゴキブリもいれば、鼠もいます。家の庭で、一生懸命に自分の尻尾をぐるぐる廻りながら追っかけているお茶目でおっちょこちょいな鼠科の動物。皆さんは教科書で勉強したかも知れませんが、僕には鼬ゴッコという言葉を鼬が全身を使って直々に教えてくれました。

 この前、しばらく留守にして久しぶりに帰宅したときの話。少しお酒を飲んでいたこともあって、一階のソファでしばらく疲れを癒していた。疲れのあまりうとうと寝てしまいそうになったその瞬間、なんと二階の屋根裏でいきなり凄い勢いで鼠が走り出したのではないか。しばらく経っても走りやむ気配はない。少し腹ただしく天井を突付いて鼠を静まり返そうと箒を持って二階に上がった。そこで起きていたとんでもない事態にびっくりしました。それは、鼠がどうのこうのっていう問題ではありませんでした。実は、僕がすっかり忘れていたのですが、その日一階のソファで横になる前に一度二階に上がっていたのです。その時、二階にあるベッドの横の電気スタンドを点けて、それを消し忘れていたみたいで、電気スタンドが布団に倒れて布団からもくもくと煙が立っていた。僕は急いで消しました。お蔭様で事態が大事には至っていなかったのでほんとうに良かったです。
 
 実は、あの鼠の大運動会は火事になりかけて家が危険にさらされていることを鼠さん達が教えてくれたのでした。そして、同居の仲間に一つ大きな義理が出来てしまった。

 僕はいつも台所の水道を捻って最初の一杯目の水を神棚に上げています。明くる日にはいつもコップの水が明らかに減っています。この家にはいろんな神様が住んでいることがあの事件が起きてからよく理解できました。それからは、水に限らず、ご飯物もお供えするべきかと思うほどです。

 最近の家は、シックハウスの問題が多いみたいです。そんな新しい家がどんどん建っているこのご時世に古民家に住んでみて、僕は古い物の良さを感じています。もちろん、天然の木と紙と土だけで出来ている我が家はシックハウスとは無縁です。ゴキブリも鼬もそして鼠さん達も心地よく生活していることがそのことを証明する何よりのバロメーターです。この家に帰れないと、ホームシックになっている僕がいます。

僕は、全国のあちこちで「日本における多文化共生の必要性」を訴える講演をさせて頂いています。そんな中、昨年11月末に行った講演では少し厳しいものがありました。その前日に「広島での幼児殺害事件の犯人はペルー人!」と報じられたからです。私は「外国人には特に犯罪などを起してほしくない」と日々願っていたので、心の中で「しまった」と悔しく思いました。「こんな事件があった直後に僕が『共生』について話しても、集まってくれた方々は聞く耳を持ってくれるだろうか」と自問自答しました。

それにしても、世の中に流れている情報について素朴な疑問を抱くことが多々ありますが、そこではいつも共通して見え隠れするキーワードがあります。他に適切な言葉があるのでしょうが、自分の言葉で表現すると、それは「多数派本位」という言葉になろうかと思います。世の中の情報の一つ大きな特徴は、社会の多数派のための、多数派による視点で発せられていることです。広島の事件の犯人は当初日系ペルー人と報じられました。「彼は日系ではあるが、ペルー人である」いう結論でしょうか。一方で、報道におけるこうした切り口が一定しないのも事実です。思い起こせば、同じ日系ペルー人のアルベルト・フジモリ大統領の場合は新聞に大々と「日本人」として報道されたという記憶は鮮明に蘇えってきます。

最近の「中国人妻による保険金目当ての殺人」についての報道もこれと共通しています。彼女は日本の国籍を取得していたので、国籍上は日本人ですが、マスコミは一団となって彼女の元々の国籍まで探り出すことに執着し、「外国人」として片付けようとしました。一方で、野球の王貞治氏の場合は、国籍はいまだ中国であるにもかかわらず、彼を「日本人」として語ろうとします。注意深く観察すると、これらのことは、「良いことは日本人」、「悪いことは外国人」という、単純な、子どもでもわかるロジックの上で成り立っていることに気づきます。日本のマスコミにおける多数派本位の傾向は、至る所で見受けられます。犯罪報道全体において、外国人犯罪を強調した報道の割合が目立って多いというのが現状です。

モノや情報に限らず、国境を越えた人の動きも活発化し、グローバル化が進んだ現代の世の中にあって、人間が置かれている立場もより多様化・複雑化しています。それは、国籍だけで括れるものではないのかもしれません。それにもかかわらず、「犯人は外国人風」といった、社会の少数者を無条件に傷つける、デリカシーのない、時代外れな情報発信はいまも後を絶ちません。

僕が、日本人離れした知らない人から声をかけられるときの第一声は、だいたい「どこの人?」です。相手が聞きたがっていることはよくわかります。でも、それほど人間が出来ていない僕の答えは一定しません。実にばらばらです。質問してきた相手の姿勢、僕の気分の起伏などによって大いに変わってきます。「京都」などと答えることもありますが、余裕のないときは「ちょっとそこ」とか「近所」とかと返すこともあります。
 
でも最近になって事態が悪化しました。それは、相手がどうのこうのではなく、むしろ僕側の変化が原因です。実は帰化したのです。「帰って化ける」という字はどう意味なのか、と悩んだ自分が懐かしい。日本に来て18年目の誕生日に紋付袴で法務所に行き、日本国籍取得の手続きを行いました。その際「外国人が日本人になる瞬間を見たいだろう」と、教え子をたくさん連れて行きました。でももちろん、私自身もさることながら、学生の中で、国籍取得の前と後での僕の変化に気づいた人は誰一人としていません。
 
アイデンティティーという英語があります。日本語で言うと「己」といったところでしょうか。その「己」を国籍に求めるのが、どうも常識のようです。それはもちろん間違いではありません。でも、唯一のものでもないと僕なんかは思います。近代国家たる概念は、出来て何百年かの歴史しかありません。国の数も減ったり増えたりです。こんな新しくて、いい加減な概念に「己」を求めるのは勇気がいるのではないか、と思うときがあります。
 
しばらく前に、友人が僕の癖を一つ見つけてくれました。僕はどうも辛いものを口に入れた次の瞬間、無意識にもう片方の手で頭をぽりぽり掻くそうです。気をつけてみると、本当でした。何でこうなるのか、いろいろ考えて僕なりの結論にたどり着きました。僕が生まれて17歳まで過ごしたスリランカの食事では比較的辛い料理が多くありました。辛いものには発汗作用があるので、きっとたくさんの毛穴が開いていたのでしょう。ところが、最近の僕となると、京都の薄味に慣れてしまっています。自分でも不思議としか言いようがないのですが、いつの間にか京都の薄味が基準になって、京都のグルメを紹介する番組の司会をやっている時に、料理人に対して、味が濃いとか失礼を発していることもあります。薄味では頭の毛穴はその役割を求められません。そして、薄味のものを食べているときに休んでいた毛穴が、辛いものを口の中に入れた瞬間目を覚ます。そうです、これこそが、作った覚えもない国の概念より一番しっくりくる僕のアイデンティティーです。

各々が、国家を離れた「己」探しを行うことが、多文化共生社会の創造への一つの道なのかもしれないと切に思います。

今大学の講義は休みですわ。学生もあっちこっち旅行なんか行ったりしているみたいです。そんななかこの前僕の携帯電話に一本の電話がかかって来た。「もしもし」と出たのですが、電話の向こうは英語です。話を聞いてみるとそれはJ君。J君はカナダからの僕の昔の教え子です。

 僕は日本の語での講義以外に、外国からやってくる短期留学生のために英語でも国際経済論の講義も持って、彼はそこの学生だった。決して英語が上手とはいえない僕にとってこの講義は少し神経質になる。学生の協力も心でいつも求めてしまう僕であるが、J君はよく気が利く学生で、なにかと助けてもらった記憶なんかもある。勉強に対しての姿勢も真面目な子です。

 そして先ほどの電話の内容ですが、僕の英語の理解力が正しければ「先生2週間、居候させて下さい」と言うものです。僕は泊めてほしいということは了解できたのですが、まさか2週間てな話は僕の勘違いだと思って真剣に考えなかった。

 約束の日、J君は早朝からやってきたときはなんか起きそうな予感がした。右手には人が余裕で入るぐらいに大きな鞄に反対側の手には大きな枕。安く上げようと夜行バスで来たようやったのですが、荷物の多さを見たときにこれは2週間は余裕で泊まるわ、早くに起こされて、眠たいななか僕は悟った。それから、僕らの共生生活が始まった。短くて濃い。

 J君は比較的早起きです。誰も居るはずのない彼の部屋から9時ぐらいにしゃべり声が聞こえてくる。朝から世界を相手にパソコンのゲームをやっていて、どこかの国の人とインターネット電話でしゃべっているようです。10時になると1回仮眠を取る。お昼の2時ぐらいに起きて近くで紹介してあげた定食屋さんでご飯を食べに行く。帰ってきてもう1回パソコンに向かって、夕方6、7時過ぎぐらいには飲みに行く。帰りはもちろん朝方です。
 
 僕は仕事をして遅くまで起きていたりすると、幸せそうな顔して僕を相手に良く1人で喋る。なんだか、こっちまで幸せになるような気がする。家には1つしか鍵が無いので、共有しようと、2人で家の玄関に鍵の隠し場所を決めた。だが、J君が鍵をもって出かけていたり、鍵をかけて爆睡していたり、自分の僕のはずねんけどと思いながらも、家に入れなくなったことはこの短期間でも数回。学校の休みも、豪快そのもの。

 Jは面白い子で、女の子を目の前にして「可愛い」って言っているつもりが「あなたが怖いですね」って言ったり、「銀座に行ってくる」って出かけて行くのだがそれが近所の「神社」だったとか、ネタに事欠かない日々であります。

 この前、僕が出かけていて帰宅し時の話しです。家に入って直ぐに異変に気づきました。玄関にはなんと洗剤の山が。周りを見渡してしばらく、状況がやっと把握できた。洗剤と並んで数日分の新聞と数日で期限が切れるという何かの割引券が。そうだ、僕は職場で読んでいるからとずっと断り続けてきた新聞の契約をJ君は僕がいない間にしてしまっていた。

 酔っ払って幸せそうな顔して帰ってきたJ君に尋ねると、「契約なんかしてないよー。紙に名前と携帯の番号を書いただけです。サービスって洗剤をくれたからもらったよー。」さらには「ビールも好きか?って」新聞拡張業務の方に聞かれて「好きでーす」って言ったら「今度持ってきてあげる」って言われたよって勝ち誇らし気に言うなり、次の瞬間いびきをかいて寝ていた。やっぱり、J君は憎めない。

 J君とは、20年前に留学してきた僕などとは時代流れの速さなど取り巻く環境もまるで違うのかもしれない。でも、やんちゃで元気一杯に明るい日々を送っている彼を見て、時代を超えてだれでも懐かしめるものが見えてきたと同時に、言葉には出来ない、なになが忘れ去ったものを思い出したような気がした。J君は将来は天然資源関連の商売に就きたいと活き込んでいる。

 今の若人には、これからも少々の失敗を恐れず、国境を渡って行き、たくさん勉強したくさん遊び、学生らしくすくすく育ってほしいと思う。僕などは、かつての自分達を重ね合わせ、懐かしむと同時に、かつての恩返しも兼ねて彼らを見守れる大人でいられる幸せを噛み締めたらと思います。

僕は教員になったら、学生さんみんなの名前を覚えたいと思っていた。でも僕の講義は大学でも一番学生が多く、その考えを断念せざるを得なかった。でも、この二人に関しては違う。それは七十五歳の山本豊さんと六十五歳の高山富士人さんです。見た目はお若いのですが、二人は社会人入試に合格して、一緒に勉強している仲間なんです。

 教室には一番乗りで、最前列に座って講義を受ける。僕が教室に入ってくるなり、会釈しながら大きい声で挨拶してくださる。そして講義中も手を一番多く上げて質問もたいへん多いです。

 僕や周りの学生は二人と仲良くしていても、なぜ大学生をやっているか誰も知らない。そこで、僕の講義時間を使って、それぞれが歩んできた人生を語ってほしいとお願いしました。二人は少し照れくさそうにしながらも満面笑みで承諾してくれました。

 山本さんは戦時中に食べるものもなくて苦労し、子供時分に重病を患ったこともあって勉学を断念しました。それからは万年筆に惚れ込んで文房具屋さんを営んだり、保険業の仕事をしたりして子どもさんを立派に育てたそうです。

 高山さんは、お父さんの故郷が富士山のふもとであることから富士人と付けられた名前だそうです。でも、山とは無縁の海の上で四十年間過ごした。近くの港に来る船に魅せられて船長になりたいと思ったらしい。

 その夢の実現には商船学校に行かないといけない。しかし、当時は食べることすらままならなかった。やがて小さな漁船で働くようになり、寝る間を惜しんで猛勉強し、最後は大きな船の船長にまで出世したそうです。

 二人の若い時の写真を見せてもらったが、本当にハンサムで、すごくもてただろうなと思います。波乱万丈の人生を歩んできたのですけど、ともに中学しか卒業できなかったことが心に引っかかっていたそうです。学校に行きたいという夢をかなえたくて定時制高校を卒業し、うちの大学に入学されたのです。

 この講義をきっかけに、二人は今まで以上に学生たちに囲まれています。一生懸命に生きること、夢をあきらめないことが人のためになることを教えてくれているようです。スリランカでは2%程度だが、日本は二人に一人は大学へ進むすごく恵まれている国だと思う。でも意外と、大学で学べる幸せをかみ締めている人が少ない。

 これからは、社会人学生が増えてきてほしい。その時こそ大学が一番大学らしくなると思います。年配の方から学ぶことが多いという意味で、スリランカでは一つの図書館に例えたりします。二人がいるから、学生はもちろん、僕もいつも良い意味の緊張感を持って講義に臨んでいます。

僕は知っている範囲でも外国からやってきて飲食の商売を始める人が実に多い。聞くところによると、移民第一世の方々は、言葉の壁などの問題で社会に溶け込めず、単独で始められるエスニック料理店などを経営して生計を立てる傾向が強いようです。

 この前の週末僕は、しばらくぶりにスリランカレストランに行って来ました。僕がその店に最後に立ち寄ったのは、5年も前のことでしたが、気が付いたら初めて店に来たときの記憶と重ね合わせていた。最初は、素人丸だしの店長さんも、今ではスリランカ料理屋の立派なプロのシェフ兼経営者となっていました。店内の内装も以前よりはるかに立派になっていて、メニューの品揃えも豊富になっていました。 

楽しい食事を堪能しながら久しぶりに会う店長さんとの話に花を咲かせていた。すると向こうの扉から、見たことのない女性がお店に入ってきた。僕と目が合うと、素敵な笑みを浮かべ、軽く会釈をしてくれました。すると次の瞬間、彼女は店長さんに近づいて耳元で何かを囁きだしたのです。何か内密そうな話をしていると察した僕は、2人の邪魔にならないように目の前の食事に集中するふりをして視線を落とした。そして僕はタイミングを見計らって、さりげなく2人の方に視線をもどすと、なんと、なんと、彼女が泣いているのではないですか!

びっくりした僕は、気が付いたら立ち上がって「大丈夫ですか!」と言葉をかけてました。しばらくの沈黙の後、友人が重い口を開いて彼女について話してくれました。泣いていたのは、店長の弟さんの奥さんでした。実は、店長の弟は、ここ二ヶ月刑務所に入れられているらしいのです。

  日本にいる外国人は滞在するのにビザがないといけない。しかしこの弟さんは、コックさんとしてのビザはちゃんと持っていました。じゃあ何で捕まったかと言うと、実は彼は、一ヶ月前からスリランカから呼び寄せた奥さんとお子さんに今まで以上に楽な生活をさせてあげようと昼間のコックの以外に夜も工場での仕事をはじめていた。僕はまだ彼はなんで捕まったか見えてきませんでした。

  実は、日本で働くとなると、申請した以外の仕事は、資格外活動したとして罪になることが分かったのです。法律の違反であれば仕方がない。でも、目の前で家族のためを思って寝ずに働いて捕まったことが悔しくて泣いている奥さんを見ると、思わず僕はもらい泣きをしてしまいました。 

 この件でまだ一人者の僕は、人生の先輩から、家族のために、子供のために一家の主のお父さんが、一生懸命に働くことが国境を越えた普遍的な価値観なんだと気づかせていただきました。一生懸命に法まで犯して寝ずに仕事をしている海外からの青年の姿が、日本人でニートなどと言う仕事意欲を失っている80万人を超え急激に増殖している日本若人にいかに写っているのだろうか。

僕は世界で一番おいしい料理を作れる人はうちのおかあちゃんだと信じています。これは絶対間違いないです。母が家で作ってくれたご飯も好きですが、お母ちゃんのお弁当もなかなかなんです。

うちの家で一番早起きはおかあちゃんです。目覚まし時計がない自宅では鶏の鳴き声が時計代わり。おかあちゃんが起きるなり、釜に火をつけて早速料理に取り掛かります。そして料理の出来上がりがそろそろというときに包丁を持ってまだまだ外が暗いのに庭に走ります。今度、家の中に入って来ると時は包丁のある反対側の手には庭で切り取ったばかりの大きなバナナの葉っぱが。それをどうするかというと、早速、鍋を乗せている竈の火を横からもらって葉っぱの裏側を焙るのです。それは葉っぱがち切れにくくするためなんです。

何を隠そうこのバナナの葉っぱはスリランカではお弁当箱に変身するのです。

バナナの葉っぱの上に熱々のご飯と汁気の少ないおかず(カリー)が乗せられます。それを丁寧に包つまれてお弁当の出来上がりってこと。

朝は本当に辛い。まだまだ眠たいのに学校に遅刻するからと親に起され、子供達も急いで顔を洗ったり、服を着替えたりして朝食を食べる。そして、家を見送られるときには、教科書の入った鞄と一緒に、おかあちゃんの愛情たっぷりのバナナの葉っぱの弁当が胸元にしっかりと。スリランカは常夏といわれますけど、それでも朝晩は少し冷え込む。そんなときに、バナナの葉っぱと新聞紙の表にまで伝わってくる温かい熱がなんとも気持ちが良い。

学校に着くと、授業のときは弁当を机の中に入れて置くのです。学校に着く頃はそんなことは無いのですが、時間が経って外もだんだんと暖かくなってくるに連れてバナナの葉っぱに蒸せたご飯がなんともいえない香りを放つ。その香りで教室が充満するのです。そのあまりにも美味しい香りを我慢できずついつい先生に隠れて弁当に手を出してしまって先生に怒られることがよくありました。

お昼にはご飯の時間がやってくるわけですが、無事食べずに残っているお弁当を持ってみんなで二三台の机をくっつけて囲むのです。そしてそれぞれのお弁当を競ってみんなで広げる。でも次の瞬間、いくら食べたくてもそれを、我慢して固唾を呑みながらも、各々が自分のお弁当にあるおかずを少しずつを取って周りの人のご弁当に載せていく。そして、みんながおかずを分け合った頃に、皆で一斉に食べ始める。

食べる時には、それぞれのお弁当には、自分のおかあちゃんが作ったものも、友達の家の違う味付けや料理法が異なるおかずもずらり。スリランカ人の子供にとってはバナナ葉っぱの弁当は違いを楽しむ基本的な感覚を養わせる大事な過程と同時に親御さんの精一杯の愛情を一番感じられる瞬間なのかもしれない。

先日、高校教師をしている友人に会いました。偶然にもお弁当の話になりました。最近では、遠足に行くと親御さんはお子さんにお金を握らせるようです。そして先生はお店でお弁当を買う時間を確保するんだそうです。遠足で食べた味は規格化されたもので何かが少し寂しいのかもしれない。

スリランカの実家のトイレ、いまでは大工さんがきちんとつくってくれた水洗便所なんですけど、子供のころは親父が近所の人たちと一緒になってつくった、ただのデカい穴でした。臭いがもれないように、しっかりした蓋がついてました。10年たっても一杯になることはないほど、深い穴ですわ。そうは言ってもそろそろあふれんで!というぐらいになると、親父がまた近所の男たちを呼んで、新しい大きな穴を掘る。そのころには、前に使っていたトイレの
大きな穴の中身は土に帰っていて、臭くもなんともない。

スリランカでのトイレ事情ですけど、実は女性だけでなく、男も座りションをする(ような気がする)んですわ。それから、紙で拭くだけでなく、水で洗うんです。右手で水を注ぎ、左手で洗います。最後には、石鹸で両手を洗います。日本のような寒い気候のところで水を使うと、お尻が凍えてしまう。寒いところは紙で拭く文化が発達して、暑い国では水で洗うという文化が発達したんかもね。日本にウォシュレットブームが来たとき、なんだか、スリランカの方が進んでいたような気がしましたわ。

一方、その日本のトイレ。初めての僕にとっては、カルチャーショックもありました。最初に驚いたのは、和式便所。どっちが前でどっちが後ろか分からない。日本人になりたい一心で、日本に来たその日から、水の代わりにトイレットペーパーを使い出した。最初は、拭くだけの人間をバカにしていたのもあって、大量にトイレットペーパーを使って、気が済むまで拭いていた記憶があります。

つい先日も、日本のトイレに驚かされましてね。北海道に行ったときのことです。初めての北海道。勉強になるものが多い。

小樽を観光しようとしていた僕に、ひとりの友人ができました。たまたま乗ったタクシーの運転手、安川さん。「僕と友達になってください」と、彼から言い出しました。「もちろんです。よろしくお願いいたします」。彼は、美味しいお寿司屋さんに連れて行ってくれたり、メーターを止めて小樽から札幌まで車を走らせてれたりしました。外国人の友達ができたって友達に連絡して、夜には大宴会が開かれたり。いやー、楽しかったですわ。

翌日。安川さんは、「小樽が経済的に潤っていた時代を教えてあげたい」と、旧青山別邸という大豪邸に連れて行ってくれました。大網元だった青山家の二代目、青山政吉が大正12年に完成させた別荘ですわ。当時の建築費は約30万円で、新宿伊勢丹デパートの建築費が約50万円だったって言うから、相当なもの。積雪の多い北海道では珍しい瓦葺屋根もあれば、あちこちに施された木彫り、漆塗りの床に柱、大きな墨絵や大襖絵。そこらじゅうに贅を尽くした、建物全体がひとつの美術品みたいなものですわ。にしん漁で賑わったその時代の小樽の繁栄ぶりがうかがえます。

こんな豪華な別荘を建てようと言い出したのは、三代目の青山政恵さん。彼女は17歳のとき、山形県酒田市の本間家邸宅に行ったそうです。そのときの本間家は「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と言われるほど、日本一の大地主やった。というわけでお宅も豪華。で、父親の政吉さんが別荘の建築にとりかかったときに、政恵さんは「あの本間邸以上のものを小樽に建ててやろう」と決心したらしいです。

話が長くなりましたけど、この旧青山邸のトイレに驚かされたんです。なんてったって、大理石でできてます。どっしりとした立派な靴もありました。「厠下駄」です。こちらの素材は陶器。豪勢ですわ。それに、政恵さんの部屋にも、専用のトイレがある。そちらも見学すると……なんと! 立ちション便器があるじゃないですか! 一緒にいた安川さんに、

「政恵さんって男ですか?」
「男のような女性だったとは聞いてますけど……」
「??????」

どういうこっちゃ? よくよく聞くと、意外な答えが帰ってきました。昔の女性は、立ちション便器を使ってたんですよ。いまでも田舎のおばあちゃんは、後の割れたズボンを履いて、立って用を足すことがあるんですって。確かに、他のトイレでは便器に向かって下駄が置いてあったのに、政恵さんの部屋のトイレの下駄は、逆の向きに置いてあった。江戸時代には、まだまだ便器は男女兼用。それは、明治政府が欧米化を進めるころまで続いていたらしい。

いまでは、立ちションは男の特権になっています。明治維新で、女性はちょっと損をしたような気がしました。

それにしても「コイツや!」っていう女性と巡り合わない。中途半端な気持ちでお付き合いすることは、この年になると良くないと思う。そんな僕の悩みをよそに、まわりの連れは幸せそう。先日も「ジンゼン式の結婚式の司会してくれー」っていきなり連れに言われました。

「僕は神主の資格、持ってへんで」
「それは神前! 俺言うてんのは人前。最近人気やねん」
「へぇ? そんなんあるんや。紛らわしいな~。わかりました。かむかもしれんけど、僕でよければ、喜んでやらせていただきます」

結婚式の司会はむちゃくちゃ緊張しますね。講演でしゃべるのとはわけが違う。なんっちゅーても、その人の一生に一度のビッグイベントですからね。いちばん気をつけたんが、「新郎」と「新婦」を言い間違えないこと。逆に言うてもうたらシャレにならんからね。連れが「新郎は、男! 一郎の郎って覚えや。新婦は女! 妊婦の婦で覚えたらええねん」というてくれた。ナイスアドバイス。おかげさまで、間違えませんでした。無事に式は終了し、連れにも泣かれながら「ありがとう」言われたときには、思わずもらい泣きしちゃいましたね。

結婚式の司会はできても、自分の結婚式はまだイメージもつかめへん。「おしん」が好きやったり、強い女性が好きやったり、健気な女性が好きやったり、最近やと、飲み物を飲んだあと、コップの縁についた口紅をさり気なく拭いている女性が好きだったりしています。つまり、どんな女性がいいのか、いまだにわからんちゅーことなんですけどね。

女性が横にいてくれたら安定するやろうなと思いますわ。いまの人生に欠けているものが、満たされるんやろうなと思う。

全寮制の男子校で育った僕にとって、女性は神秘的な存在でした。貞操観念の強いスリランカ。そこで生まれた僕が、17歳のときに日本に来るまで、口をきいたことのある女性は、おかんと、お婆ちゃんと、おばちゃんと、親戚のお姉さんと、自分の妹。それ以外は、お店の店員くらいなもんですわ。そんなわけで、男性はしょうもない存在で、女性は神秘的に違いないと思いこむ。そらそうなるわなぁと、いまから考えても納得できますね。

日本に来ても、大学時代は体育会系の生活が長かったこともあり、女性と仲良くなる機会はほとんど無かった。大学院に入ると、少しはそんな機会も増えました。そのとき仲良くなった女性は、ジェンダー論だとか、フェミニズムを唱える女性が多かった。「髪形変えましたね」というだけでも、「セクハラ!」と言われまして。「お前の存在自体がセクハラやねん」って言われたこともあったりして……。まぁいつも腰を低くして、いかにも女性が好きですってな仕草をしてますからね。しょうがないですわ。

神秘的とまではいかなくても、僕にとって女性はまだまだ謎の存在ですわ。リサーチが必要です。女性とは何かを知ることは、経済学者の僕ですが、経済うんぬん以上に、問題意識として大きなウエイトを占めています。このテーマでの研究は、子供のころからスタートして、いまだに続いてるわけです。

辞書をめくってみました。「女」という字は、女性の柔らかな身体つきを示す象形文字で出来ているらしい。一方の男とい言う字は「田を力を入れて耕す」とい意味なんですって。字からして男は力いっぱい働き、女性は優雅に暮らしていけばよいって感じですね。妖怪の 「妖」にも、妨害の 「妨」にも「女」がついているあたり、男性にとって、女性の大きさみたいものを感じさせる。女がつく漢字がどれくらいあるか数えたら(ヒマでスミマセン!)、なんと出てくる出てくる! 姦、嫌、嫉、妬、妨、妄、娚、婬、嫁、奴、妄、姑、妾、姥、娯、婆、媚、嫁、嬌……などなど、拾い出せばきりがない。男がついた漢字は両手両足の指で数えられるくらいなんやけどね。

男女関係の基本中の基本、「好き」か「嫌い」かの感情をあらわす言葉も、「女」がつきます。女性の方が豊かな感受性を持っていたからなのか、それとも好きか嫌いかの決定権が女性にあったからなのか、男は人前で感情をあらわにするべきでは無いと言う文化なんか、その辺の研究は今後の課題です。

そんなこんなで悩みながら、飲みに行った帰りに知り合いのお茶屋さんのところに寄りました。そしたら、舞妓さんらがひと仕事終わって帰ってきはった。いつも座敷で見せるしっかりした顔が、まだまだ若い女の子の顔に戻ります。言葉づかいは、「そうどす」ってな舞妓はん言葉やけど、仕草やら身のこなし方なんか、いまどきの子って感じですわ。

舞子さんを見ると、僕は日本の自然の美を感じてまう。スリランカには無い、四季の美。とくに舞妓さんのかんざしが、日本の四季折々を勉強させてくれる小さな教科書ですね。

春、三月は、「なたね」。蝶が飛んだりもします。四月は、もちろん「さくら」。五月は、「藤」の他に「菖蒲」もある。夏になると、六月は「やなぎ」に撫子の花が咲いて、七月は「うちわ」。八月は、「すすきはなび」「あさがお」。

秋。九月は、「ききょう」に十月は「きく」。十一月は、「もみじ」です。そろそろ冬になってくると、十二月は「まねき」で、一月はめでたく「松・竹・梅」。二月は「うめ」です。

舞妓さんの頭の上に乗り出してかんざしをのぞきこむ僕を見かねて、舞妓さんがかんざしをそっと抜いて、手に渡してくれた。

「かんざしの先っぽ、面白いですね。耳掻きみたいで」
「にしゃんた君、えらい」
「???」
「良く分かりましたね。耳掻きなんです」
「……ほんまっすか?」

日本のかんざしの歴史は、縄文時代までさかのぼるらしい。江戸時代になると、幕府は「かんざしみたいな贅沢品は許さへん!」ってことを言い出した。江戸の市民はタフですね。新製品をつくりましてん。どう見てもかんざしなんですけど、一箇所だけ違っていた。それが、耳掻きの部分です。もちろん実用的に機能していて、その名残がいまのかんざしに残っているんですって。

時代劇がお好きな方なら、よくこんなシーンを見ますよね。女性が頭からかんざしを抜いて、悪い奴を刺し殺す。かんざしって面白いですね。耳掻きの部分で、好きな男には、膝枕なんかで耳掃除してあげる。嫌いな男に対しては、とんがっている方で刺し殺す。かんざしが女性という存在を象徴しているように感じますわ。

日本行きの飛行機のなかで、スリランカ風の春巻きと間違えて、おしぼりを食べてしまって以来、僕はたくさんのカルチャーショックを経験しました。エレベーターこそ無事に乗りこなせたものの、エスカレーターに乗るタイミングをつかむまでには、ずいぶん長い時間がかかりました。いったい何度コケたことか、信じてもらえるでしょうか……。

なかでも、公衆電話で電話をかけていた日本人のおじさんの姿が忘れられない。自分の目を疑う光景が目の前で展開されてました。おじさんと電話の関係性ですわ。なんと、おじさんが、電話にお辞儀をしながら喋ってる。ハテナマークで頭が一杯になった僕は、一緒に日本に来た友人に尋ねた。何でも知っているので有名だった彼のあだ名は、「ハカセ」。

「ハカセ、あれ何?」
「……お前、そんなんも知らんのか」
「お前、知っとるんか」
「当たり前や。ええか、日本人は礼儀正しい民族やねん。だから電話機に対しても礼儀を重んじるんや。何ぼお金を入れてもそれでは不十分やねん。お辞儀せんと、電話は勝手に切れよんねん」

いま考えると、博士はアドリブが上手な人やったんやなぁ。当時はひたすら感心してしまいましたが。

スリランカは、威厳を大事にする国なんです。自分を大きく見せる習性がついてる。狭い道をすれ違う時、ぶつからないように道をあけてあげたり、体をそらしてあげると、感謝するどころか、相手がビビっていると思いこみ、態度からなにから大きくなる。ほんで、同じように譲り合うどころか、道のど真ん中を堂々と歩いてしまう。これ、イギリスに植民地支配されていたころの名残なんですわ。対人関係支配戦法です。数の少ないイギリス人が、多数のスリランカ人を支配するためのやり方やったんですわ。

僕は、自分が下手に出ても、相手との親近感を保とうとする日本社会の対人関係が好きです。スリランカ人も絶対に見習わなあかん。そしたら悲しい内戦やテロも無くなるでしょう。

僕のdigエッセイを担当している編集のTさん。いつも「にしゃんた、早く結婚せえっ」って心から心配してくれてた彼が先日、僕より一足(?)早く結婚しました。二次会に僕も遊びに行きまして、素敵なTさん夫妻をみんなで祝福。僕も簡単なスピーチをしましたよ。

それで場はちょっとした合コンのりになってきたので、新婦の未婚のお友達を口説いたりなんかもしちゃったりしていると、なんと地震発生!! 揺れる揺れる。久々の震度5級もの。一瞬会場は静まりかえりましたが、まあだからって、机の下にもぐる人もいなければ、大声を出す人もいない。平穏無事に結婚式の二次会は終了。

みんな出口でさよならを言っているときですわ。お店の方が、異常なぐらい申し訳なさそうな顔をして、Tさんに謝っている。何のことかと近寄って耳を傾けると、なんと「地震でみなさまを驚かせてしまって、大変申し訳ないです」って謝ってるではないですか。

スリランカ人には理解不能な話であることは、間違いない。どう考えても、地震が起きたのは店の人のせいじゃない。それでも、お店の人は恐縮して謝ってました。それに対してTさんも恐縮しながら、笑顔でお礼を言っていた。これこそ、日本が世界に誇る、「謙虚の心」なんやろうなって思いました。

スリランカは、自分の非を認めることはしない。非を認めるということは、会社であれば自分の首が危ない。日本だったら、「ごめん、花瓶を割ってしまってん」いうところが、スリランカでは、「花瓶が割れた」としか言わない。

二次会の席。質問攻めにあっていたTさん。「いままでいちばんの喧嘩はどういう理由やった?」って聞かれ、「気まずい雰囲気になったその瞬間にとにかく僕が謝る、という戦法をとっているので、喧嘩したことありません」と答えてました。是非是非、いつまでも謙虚な心を持ち続けて、幸せで平和な家庭を築いてくださいね。

僕は「外国人登録証明書」の常時携帯を義務づけられています。「常時携帯っていうけど、外国人の関取はどうすんねん! ふんどしにはさむんか!」って怒る人もいますわ。この証明書に、小さい字でエイリアン(Alien)って書いてあるのもおもしろい。外国人っていう意味やねんけど、僕らの世代はどうしても、よその惑星からきた人って感じしますよね。伝わり方っていうか、感じ方は、やっぱり気持ち悪い。

このカードに、僕のフルネームが書いてあります。Nishantha Jayashinghe Arachilage Thusitha Devapriya。ほんま言うと、にしゃんた、っていう部分は、いちばん最後にくるんです。しかし、カードには名前の次に苗字、そしてその他の順番に書くことが決められている。英語にあわせとるんです。日本語では先に苗字やのに、何でわざわざスリランカ人の僕が日本で英語表記の順番に合わされなあかんのか、理解に苦しみます。

僕、2年ほど前から、帰化の申請をしているんです。でも、なかなか作業が進みません。用意せなあかん書類が多いんですわ。妹の出生証明書に結婚証明書までださなあかん。自宅周りで聞き込みまでされてますからね。なかでも、僕にとっての最大の問題は、名前なんです。平仮名の「にしゃんた」を名として使えても、苗字が見つからない。JATDのローマ字は、もちろん日本では受け付けてくれません。かといって、日本語に変えたら、ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリア。長いっちゅうねん。

この前、印鑑証明書をもらいに、市役所にいったときの話。若い職員が応対してくれた。紙を見るなり彼は不十分な点があると指摘してきたわけです。

「申請者のところにフルネームを書いてください」

通称名だけでは不十分らしい。訂正して、再提出。でもその若い職員のカレ、まだまだ不満あるらしい。

「併記名も書いてください」

すでに、小さい枠から余裕で3倍ははみ出てます。堪忍袋の緒が切れる直前やけど、ぐっと我慢して小さい字で名前を書く。何とか書き終わったときに、カレは止めを刺してくれた。サイン(署名)欄を指さして、

「ここに、フルネームを書いてください」

……ちょっと待ってくれや。サインとフルネームはちゃうで。

「証明書一枚のために、何でこんなことをさせるんですか」
「……といいますと?」
「あんなー。名前をひとつ書いたらわかるでしょ、誰が申請者ってことぐらい。登録番号も書いてあるんやし、間違いようがないやん。名前の欄こんなに小さいくせに、あほみたいに何度もフルネーム書かせて、嫌がらせですか!」

……カレは、どもった声で「失礼しました。ご自身の名前を書くことが苦痛だとは知りませんでした」

カレの理屈は分からないでもない。たまたま僕の名前が長かった。確かにこれは僕だけの悩みです。他の人には関係がない。でもこんなこと、やってられへん。そんなわけで、帰化する前に素敵な苗字を考えることにしたんですわ。

先日、京都の文化に精通しているある先生と一緒に仕事をしました。僕は先生の大ファンで、会うたびに京都のしきたりや由来などを教えてもらってるんです。そこで、苗字について先生に相談することにしました。

「先生、僕に日本の苗字を下さい。帰化したいんです」

非常に謙虚な方で、恐縮されながらも、「分かりました、一週間下さい」とおっしゃった。そして一週間後、一枚のファックスが届きました。

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ご苗字の命名の件
前略 何かとお世話になっております。ご依頼の件ですが、JATDの意味やスリランカ、京都、日本、武道、佛教、神などをキーワードに考えてみました。気に入っていただければ幸いです。

【紅】(くれない)
「紅」は最も格の高い水引の色です。一見黒光りする上品なもので、手に水をつけると手が真っ赤に染まります。また、名香のひとつでもあり、スリランカの名産紅茶をも連想できると思います。日本に帰化されても、スリランカの父母や先祖を忘れないためにも「紅」をいう苗字は如何でしょうか。他にも浄徳、寿海、永徳、大岩、天宮などが思い浮かびますが……以上

なるほど。紅茶にちなんで紅か。素敵やな。そう思って、急いで画数を数えました……あちゃー、ひとつ足りない。友人に借りた姓名判断の本によると、画数は奇数が良く、しかも23画であれば言うことないらしいんです。中黒を入れて「紅・にしゃんた」ってどうやろ、とか友人に相談してみると、「女の子らしいで」とか「売れない芸人みたい」とか、「紅といえば、豚やんけ」とか、せっかく先生が考えてくれたのに、評判悪い。

そんなわけで、別の恩師にも相談してみることにしました。いまでは定年退職している元大学教員の恩師ご夫妻が、僕の自宅にたまたま遊びに来てくれたんです。

「ふむ。早速考えてみよう」と言ってくれました。
色々考えた結果、最後に結論として上がったのは、「三条」。画数的にもばっちりです。三条大橋は、僕がよく希望や不安を胸に鴨川を見下ろしていた、縁の深い場所。

それから、知り合いの弁護士さんにも相談してみた。
「スリランカの国を表す漢字ってないの? フランスは仏国、アメリカは米国って感じの」
「錫蘭(セイロン)ですわ」
「それがいいんちゃう?」

いまのところ、「三条」が優勢です。三条にしゃんた。どうですか? ほかにいいアイデアがあれば、ぜひ教えてください。

アジアについて語るのは大いに結構やねんけども、僕たちはひとつ忘れものをしているんちゃうかなって思うときがある。そのアジアには、日本が入ってないんちゃうかってことですわ。できたら、僕の経済学の授業中に、日本のことも勉強したい。そんなちょっとした閃きで、学生への説得が始まりました。

みなさん。僕は故郷のスリランカで、日本のテレビドラマ「おしん」を見て、日本という国にあこがれたんです(まぁ、最近の学生はおしんなんて知らんコの方が多いけど)。とにかく、そのときの日本が好きで好きで、それで日本まで来てもうてんけど、実際に住んでみると僕があこがれた古き良き日本のことを、だれもが忘れかけてた。欧米化しようと必死でしたわ。

何で日本人やのに、日本のことを知らんのや。残念でした。でも、よく考えると、僕も古き良きスリランカのことを、ほとんど知らんかったんですわ。これって、悲しいですよね。そこで、ひとつ提案ですが、僕と一緒にみんなで手分けをして、日本で最近見られなくなったものを探して、いろいろ考えてみませんか──
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学生は意外に乗り気やった。「僕たちも受験勉強でそんなんを考える機会がなかった。ぜひ調べてみたいです」。……うれしい限りです。

「じゃあ調べたものについて、500字ぐらいでまとめてみましょう。日本にいつごろから存在しているのか。日本人にとって、それがどういう意味を持っていたのか。そこに隠れている日本人の心を探してみましょう。僕も早速、何か探してみます」

京都に住んでてよかったと思います。伝統産業を探したら、必ず見つかりますからね。いろいろ歩き回って、僕が興味を引かれたのが、「風呂敷」ですわ。

風呂敷を売っているお店に行って、商品を見ることに。応対してくれていた女性の方は、カンが鋭かった。
 
「勉強かなにかですか?」
「はい」
「お時間ありますか?」
「はい」
「詳しい人間がおりますので、連れてきますね」

そう言って奥のほうへ。しばらくするとダンディーなおっちゃんが現れる。

「竹村です」 

僕ってほんまにラッキーやなとおもいますわ。竹村さんは、風呂敷の知識にかけては日本一といわれるような人でした。

「風呂敷は、何も日本だけのものやあらしません。中近東がその始まりと言われています。風呂敷のような一枚の布を使うことが、いろんな世界の国で見られます。近所では、モンゴルでも、中国でも、韓国でも、使われています。でも少し使い方が違いますね。たとえば、韓国では、風呂敷を袋状にして壁につるし、余分な荷物を入れて保管します」

へえー。僕はただただ感心するだけ。目的も忘れて「一枚いくらですか?」なんて素朴な質問もしてしまう。それでも、竹村さんはイヤな顔ひとつせず、

「私は、この会社で3代の社長について働いてきていますが、君のような人が来て、こんなに一生懸命質問してくれるのは初めてだ。しかも外国から」
って言ってくれはりました。

「日本は農耕民族なので、生活となると同じことの繰り返しです。それに、農業は共同作業が大事ですね。風呂敷は、汚れを清らかにしているという表現、物を清めて差し上げる、清浄な物であるという印としての意味も持っているんですわ」

そんな話を感心しながら聞いていると、気がついたらなんとお店が閉まる時間をとっくに過ぎてました。でもでも、僕はまだまだ聞き足らない。いっぽうで、竹村さんも、まだまだ伝えたりない様子。その後は、躊躇している僕を見て、竹村さんが通いつけのお店に連れて行ってくれはりました。ビールにウィスキーを飲みながら、その日は気がついたら夜の2時ぐらいまで飲んでいた。フィールドワーカーとしての鉄則のひとつに、忘れる前に書けってことがある。でもこの日、伝えてもらったことは、酒を飲んでもそうそう頭から消えるものではなかったです。職人の魂、心構えを教えてもらった。竹村さんは最後に、ひとつ僕に指令を下しました。

「正倉院に行きなさい。そこにある風呂敷を見なさい」

あくる日。古い風呂敷がある奈良の正倉院に出かけました。聖武天皇の遺愛の品をはじめ、東大寺に伝わった宝物を納める宝庫です。

近くにいた管理人風の方を見つけて「すみません! 古い風呂敷があるって聞いて来たんですけれども、このなかに入っているんですよね」
「最近まではこのなかに保存してしていたんだけれども、いまは温度調整のできる近代的な蔵に保管しています」
「なんで? どうして?」
「最近この近所で高速道路ができて、排気ガスで保管している品が汚れるようになったからです」
「え!」
「いままで、100年かけて汚れたであろう分量が、1年で汚れるようになりました」
なんだか声が怒り気味です。

結局、保管されている「風呂敷の写真」の写真を撮らせて頂きました。日本でいちばん古いとされている風呂敷の写真ですわ。もっと古い風呂敷がたくさんあったらしいんやけど、火災や戦災でみんななくなって、正倉院にあるものがいまではいちばん古いって言われてます。竹村さんは、きっと風呂敷だけではなく、日本の知恵がなくなりかけている、その現実もあわせて見せたかったんじゃないかなと思いました。

京都に帰る電車のなか。隣に座った方に声をかけられました。いつもあることで、いわば、僕の特権のひとつです。

「日本語しゃべりますか? 旅行ですか?」
「京都に住んでます。ちょっと奈良までいったんですよ」
「大仏さん?」
「その近所の正倉院です」
「何をしに行ったんですか」
「風呂敷に隠れた日本の心を探しているんですよ」
「面白い人ですね。日本人は日本の文化をもっと良く知らないといけないですわ。貴方さんのような外人さんが興味持っていて日本人は知らん顔しているって本当に残念です」

そして、ひとつの話をしてくれました。
「おんぶ紐って知っていますか」
「は、はい。スリランカで見た『おしん』が使ってました」
「背中に子供を背負うおんぶ紐が、昔日本にありましてん」
「はい」
「仕事をしているお母さんの背中で、子供がお母さんのぬくもりを感じながら、育ったものですわ。それが戦後、アメリカが良くないって言い出してね。アメリカに従って、日本人はおんぶ紐を使うことをやめたんです。それに代わって、アメリカで開発された、おなかに子供を抱えるおんぶ装具を使うようになった。でもこれ、お母さんが転んだりした場合、非常に危ないでしょ」
「分かります」
「それに、前に子供を抱えると、仕事がしにくい。そんなこんなあって、最近では、アメリカで開発された背中に子供を背負う『おんぶ装具』が使われてるんです。そんな遠まわり、ほんまに意味なかったわ」

アフリカ出身の連れが、年配の人がひとり亡くなるってことは、ひとつの図書館がなくなるのと同じやって言うてたのを思い出した。

そして、僕の僕の短くて濃厚なフィールドワークが終わりました。

いよいよ発表の日。学生ががんばっていろんな物を調べてきてくれた。そしてみんなの前で発表してくれた。
水引に、獅子落し、褌(ふんどし)に、松竹梅。畳に、達磨落し、そして、折り紙。花火に、しめ縄に、簪。狸に、神棚に、仏壇、扇子やら、面子、などなど。ほんまにいろんな物があります。

「最後、にしゃんた先生の番」
「僕は風呂敷について調べてきました」
「どうぞ」

風呂敷という言葉が、日本の歴史に登場するのは1616年。徳川家康の「駿府(すんぷ)御分物御道具帖」のなかにある「こくら木綿風呂敷」という記述が最初であるとされます。

そして、日本での最も古い実在する風呂敷は、奈良の正倉院に「つつみ」という名で保管されています。風呂敷の名前の起こりは、その文字どおり、お風呂です。

当時のお風呂は蒸風呂で、浴衣を着て入る蒸気浴が普通でした。 そして、お風呂に敷いて使ったり、脱いだ着物を、包み布、つまり風呂敷で包んで、もち帰ることが常でした。 風呂敷が庶民の間に定着するのは、銭湯が発達する江戸時代だとされています。

大きさもさまざまで、小さいものだと幅45・、大きいもので2m以上のものもあります。素材も絹、綿、麻など用途によって使い分けています。何の変哲もない四角い布ですが、その使い方は実に万能です。運ぶ、収める、まとめる、掛ける、敷く、そして拭きものとしての機能をもかね備えています。

風呂敷のいちばん大きな役割は大切なものを包むことです。包むという漢字をご覧ください。これは母親の胎内に子供が宿っている状態を表しています。包むという行為には、ものを大切に、慈(いつく)しむといった日本人の深い心が投影されているのではないでしょうか。

僕の発表が終わりました。最後に平包み、隠し包み、瓶包みなど、風呂敷のいくつか結び方をも紹介。学生はこれもまた新鮮に喜んでくれました。

身近なものに対する見方が、僕たちのなかで少し変わったような気がします。学生たちの発表は短いものやったけど、言葉で言い表せないような、いちばん身近なアジアの経済を学んでいるに違いない。僕がそうだったと同じように。

京都の夏の風物詩といえば床(ユカ)。この時期、御池~四条間は床でびっしりですわ。床では、梅肉をつけたハモを食べる。ハモなんか、骨が多くて食べられへんかってんけど、食糧確保で苦労していた京都の人が、ハモの骨切り技術を発明したことによって、全国のハモが京都に集中。そんで、京都の名物になったんですって。

昔の僕にとっては、床は、鴨川沿いを歩きながら見上げるものやった。っていうか、ほとんど関心なくてね。むしろ、川辺に等間隔で座っているカップルにばかり目がいってましたわ。大人になってからは、年に少なくとも一回は床に行きます。床からカップルを見下ろしてますわ。まぁ、どっちにしてもうらやましいという気持ちはかわらへんけど。
 ●
僕の大事な知り合い、ジェフ・バーグランドさん。大学の教授にして、テレビでも活躍中のタレントです。僕にとって、日本で活躍しているジェフさんの存在はすごく大きい。僕が生まれた1969年に日本に来て、以来ずっと日本にいはるんです。同じ京都在住っていうのもあって、ものすごい親近感を一方的に抱いていた。話し方がとても上手で、すぐに聞く人を引き込んでしまう。いまから7年前のある日、ジェフさんの講演に履歴書を用意して言った僕は、質疑応答の時間に、「弟子にしてください!」って大声で頼んでしまったこともありました。

2週間ぐらい前、そんなジェフさんから電話がありました。
「にしゃんた君遊びにこない?」
「行きます!」

師匠からのお誘いを断る弟子はいない。
「にしゃんた君、ふたりで漫才やらへん?」
「……ぜひ。光栄です」

実は、ジェフさんが知り合いに漫才をやってほしいって頼まれて、台本までもらったらしい。でもその漫才は、あまり気に食わへんってことで「ネタから僕らで考えたいねん」って言うんです。「今度、床開きをやるから、そこで披露しましょう」ってことになりました。そうです。ジェフさんは「マイ床」を持ってはるんです。

まずは、コンビ名から。
「リアル・オセロにしようか?」
「いいですね。しょっぱなから冴えてますね!」

「ほんまもんの白人、ジェフです!」
「ほんまもんの黒人、にしゃんたです!」
「二人合わせてリアル・オセロでーす!」
って具合に始まるわけです。

素晴らしい出だしや!と思い、早速ジェフさんの奥さんの薫さんに聞いてもらうと、「そんな言い方、ちょっとお下品やさかい、おやめなさい」。ふたりそろって、「は~い」。

落ち込んでいるヒマなどありません。コンビ名は、ふたりとも町家に住んでいることから「町家ボーイズ」ってことになりました。

ネタ合わせも早い。3回ほどで、すっと頭に入りました。だって、実際にジェフさんと僕が日本に来て経験した異文化体験がメインやから。
 ●
そっそく、床開き当日。夕方6時ぐらいになると、お客さんがぞろぞろと。ジェフさんの交友関係の広さを物語る、そうそうたるメンバーです。知事さんに、芸能関係者。道端では歩いていないような可愛らしい女の子。なんと、現役アイドルの方々でした。

みんながほろ酔い気分。僕は、アイドルのところに入って楽しく盛り上がっていた。毎日がこんなんだと良いのにねぇと浮かれていた僕を現実に戻してくれたのは、ジェフさんの一言です。

「漫才やるでー」

いよいよスタートです。
 ●
J:町屋に住んでいるジェフ・バーグランドです。

N:同じく、町屋に住んでいるにしゃんたです。

JN:ふたり合わせてあわせて、「町屋ボーイズ」!

J:にしゃんた、いまのボーイズの発音、おかしいで!

N:そりゃそうですよ。僕にとっては、英語も外国語やもん。

J:外国人って、みんな英語を喋るんと違うの?

N:あんた、日本にいすぎでっせ。そう思っているのは日本人ぐらいなもんや。

J:漫才やから、大げさに言わなおもろないやろ!

N:計算やったんかいな。ちなみに僕の母語はシンハラ語です。
 ●
J:いやー、勉強になりますねぇ。勉強ついでに、ここでもうひとつ。「外人」と言わず、「外国人」って言ってくださいね。

N:放送禁止用語ですよね。だからテレビ・ラジオで使ってませんね。

J:そうやでー。

N:ジェフさん「外人」って言われて気にしはりますか?

J:個人的には良いけど、気を悪くする人いるよ。にしゃんたは?

N:「外国人」っていうより、日本に入ってきた時に空港にでかでかと「Alien」って書いてあったのを見たときは、びっくりしましたね。

J:うん。エイリアンって、他所の星から来た怪獣のイメージでしょう。

N:そうですよね。ジェフさんは、日本に来たときに驚きはなかったですか。

J:それは、すごいカルチャーショックやった。生活習慣も、食べ物も、言葉も何もかも違った。でも経済的に余裕があったからお金の不安はなかった。

N:ええ! 金持ちやったんですか?

J:そうでもないけど、35年前って、1ドル360円の時代。最初の1年で280円に下がって、この前、100円切って、いまは110円程度ですね。

N:学生やったんでしょう。

J:親から月に100ドルもらってた。それを日本円に換えると3万6千円。それで、食事代と家賃で1万円を大家さんに払うでしょ。あとは、僕の遊ぶお金。当時のサラリーマンの初年給が4万5千円。その半分が僕のお小遣いですわ。余裕やった。

N:リッチですねー

J:にしゃんたは?

N:全然違う!

J:でもにしゃんたも留学やったやろ?

N:日本に来てはじめの学費が9万円やったけど、スリランカからもってきたのは、親が家を担保にしてつくってくれた7万円だけ。学費も払えへん。

J:それでどうしたん?

N:英語の先生になった。

J:うそやろ? できへんやん。

N:はい。嘘です。

J:本当は?

N:雄琴で、旅館の布団敷きでした。アベックが入れ替わり立ち代り……結構なアルバイト料になって。

J:へええ。

N:学費は払えたんですけどね。人の倍は働きましたよ。

J:僕も人の倍は勉強した。
 ●
N:いろんなことを経験したんだけれども、異文化体験というものも、日本の生活が長くなると、なくなるものですよね。

J:にしゃんた君は、どれぐらい日本に住んでいるの?

N:僕は、18年。ジェフさんは?

J:僕は、36年です。

N:倍ですね

N:僕が住んでいる家が、80歳です。ジェフさんは?

J:160年。

JN:これまた倍ですね。

J:でも何もかも倍と違うよー。おなかの大きさとか。

N:でも間違いなく、二倍はしゃべっていす。

JN:それでは、みなさん…バイバイ。
 ●
最後にオーディエンスを代表して、僕らの漫才を評価してもらいました。

「桂南光さん、お願いします」
「内容はすばらしかったです。120点ですわ」
「漫才的には?」
「……20点ぐらい」

さいごにきちんとオトしてくれはりました。

テレビをつけたら、必ず戦争の映像が流れてますね。スリランカもときたま登場します。僕にとって戦争は、身近なものです。

スリランカの同級生は、たくさん内乱に巻きこまれました。同じラグビーチームのメンバーだけでも、レギュラーの半分はもう生きてない。目を失ったり、足を失ったりしている人もいます。僕もまわりの人に「スリランカに残ってたら死んでたわ」ってよく言われました。でも、いまのスリランカはすっかり平和になって、言葉では言い表せないぐらい嬉しい。町中のあちこちにあった検問のバリアを見るたびに、気分が悪くなっていましたからね。

そんな環境で育ちましたから、戦争のことになると、同年代の日本人よりも敏感です。ときには鳥肌が立つときもあります。
 ●
僕が卒業した大学は、日露戦争末期の1908年、陸軍第十六師団が設立されたところにあります。敗戦によって米軍に接収されましたが、その当時の名残は、いまもあちこちにあります。たとえば道についている、第一軍道、第二軍道、師団街道といった名前もその当時の名残。僕が通っていたお風呂屋さんも『軍人湯』っていう名前のところで、当時の軍人さんが使ってたんですわ。

山口県で以前宿泊していた場所は、寺内元帥(南方軍総司令官)の生家の跡地やった。そういえば、そこの庭に立派な杉苔が無造作に生えていて、剥がしてもって帰ろうか、やめておこうかって、よく自分と闘ってましたわ。結局良心が勝ってしまって、京都の町屋の坪庭用の苔を高い金を出して買ったんやけど、寺内元帥の生家の敷地内に聳え立っていた、韓国から(もちろんタダで)かっぱらってきた戦利品を入れるためにつくった立派な図書館を見るたびに、複雑な思いでした。

鹿児島に行ったとき。鹿児島市内から桜島へ渡るフェリーに乗ると、進行方向に向かって富士さんそっくりの山のシルエットが見えました。同行していた鹿児島の平野さんに「富士山に似ていますね」って言うと、「そうなんです。薩摩富士って言うんです」って教えてもらいました。この近くの知覧というところに、神風特攻隊の基地があったんです。神風特攻隊というのは、いまでいうなら自爆テロと同じ、若者たちが片道の燃料を積んで飛び立ちました。出撃前には薩摩富士に対して敬礼をするような人も多かったそうですわ。

いまでは当たり前に感じている道幅の広い御池通りも、それは最初から広かったわけではなくて、戦車を走らせたり、軍事用飛行機の滑走路として使うために広くしたらしい。当時、知り合いがこの御池に面したところに家を何件か持っていて、ある日家賃を回収しにいったら、家が跡形もなかったらしいです。いまでは穏やかな寺町通りにも、軍事用の部品をつくる工場がたくさんあったらしい。
 ●
日本のあちこちに戦争の傷跡があります。日本軍はスリランカを空爆したけど、日本にはスリランカ軍による傷跡はない。だから僕は、日本に残っている戦争の傷跡をどこか余計に客観的に見れているかもしれない。ひとつ気づくことは、日本には加害者としてのも傷跡があるはずやのに、クローズアップされるのは、被害者としての傷跡だけってこと。広島も長崎も、全国にある護国神社を歩いても、はたまた、京都の舞鶴にある引揚記念館を見ても、日本人の被害者像しか描かれていない。

旧ソ連で拘留を受けた兵隊さんの厳しい扱われ方とか、息子を日本で待つ母親の悲しさについては描かれているけど、そもそもなんで日本人が旧ソ連に行ったんか、説明が欠けてます。韓国や中国から強制連行されて働かされた人がどんな運命をたどったか、説明が欠けてます。おせっかいかもしれないけど、戦争は過去に事実としてあったことで、悪いことをしたし、悪いことをされましたっていう、偏りのない事実を記録することが、国を超えた平和に繋がるいちばんの近道のように思います。
 ●
突然ですけど、僕は町屋に住むようになってから、骨董品蒐集家になりかけてるんです。何でかというと、町屋にはプラスチック系のモノがやっぱり似合わへんような気がするから。スリランカ人やけどね、そう思いますわ。だから骨董品屋さんを回ることが多いんです。そのなかで、面白い発見をしました。

それは、日本のモノの素材が、時代によって変わるということです。たとえば、湯たんぽとか煙管、水筒やすき焼き鍋も、見ていると鉄でつくられていたり、陶磁器のものがあったり。どうも戦争に突入したときに、国中の鉄が没収されたらしい。代用品として、鉄の代わりに陶磁器で造るようになった。

もうひとつ見つけた興味深いモノは、分銅なんです。3つの材料でできていました。ひとつは鉄製。ひとつは陶製。ひとつはジュラルミン製です。どれも、日本の「時代」を表してますね。比較的平和な大正時代の分銅は鉄製でした。昭和10年あたりから鉄は貴重品になったので、陶製に切り替わった(岐阜製)。そして、3つ目のジュラルミンは、敗戦後のもので、墜落した戦闘機とか爆弾機の残骸でつくっていたらしい(沖縄製)。

そんな話を聞くと、僕は陶製のモノに、どこか死を予感させられます。そして、ジュラルミン製のモノは、惨劇の傷跡の証に見えてならないです。
 ●
またまた突然ですけど、僕は、嵯峨・嵐山で大学時代を過ごしてたんです。原アパートってところに住んでいて、そのアパートの敷地内には原さんも暮らしていた。僕は原アパートに住んだ最初の留学生で、まわりの方にすごく大事にしてもらいました。

で、そこには原さんのおばあちゃんも住んでいた。おばあちゃんは前から足が悪くて、家から出てくることはあまりありませんでした。たまに日向ぼっこをしていているところを見るぐらい。目が合うと、最初はビックリされていたんですけど、だんだん会釈をする仲になりました。

でもおばあちゃんの会釈は、ちょっと変でした。すごく、深々なんです。それで、半年ぐらいたったある日、家を出ようとしたときにおばあちゃんが、僕を呼びつけはった。

「あのーすみません」
「ああ、こんにちわ」
「あのー」
「はい」
「・・・・・・・・・・・」

呼びつけたものの何か言いにくそうな雰囲気。そして、静かな時間が過ぎて、おばあちゃんが言葉を発した。

「あなたさんに、謝りたいことがありますねん」
「そんな。なんもあるはずないじゃないですか」
「私は、いくら戦時中とは言うても……悪いことをしました」
「???」
「竹槍で、あなたさんらを刺す練習をしていたんや」
「???」
「かんにんしとくれやす」
「……とんでもありません。大丈夫ですよ」

そのときはそう答えたものの、あまり意味がわからんかった。竹槍を持って軍事訓練を受けてたってことを、外国人の僕を見たときに謝りたかったんですね。僕がそのことを理解したころには、もうおばあちゃんは亡くなってはった。

僕のなかには、たくさんの戦争の思い出がある。でも、そのときのおばあちゃんの言葉ほど、心に強く訴えかけたものはなかった。

ひとつだけ、僕が心のなかに刻みつけたことは、おばあちゃんみたいな気の優しい方を巻き込む戦争は、絶対にしたらあかんってことですわ。

この前の春休み、一週間だけスリランカに帰りました。全然仕送りしてへんことを、怒られへんかなぁと、恐る恐るですわ。今回、一緒に教え子と友達を連れて帰りまして。合計7人がスリランカの空港に降り立ちました。迎えに来たがる親には家でゆっくりしてもらうようにお願いして、現地の連れに空港まで迎えに来てもらいました。

でもやっぱり、家に着くや否や、飲めや歌えやの大騒ぎ。そんななかで、スリランカの実家に居候をしていた僕の大学の連れ(日本人)がお土産として持ってきた日本の「石鹸」の話になった。

実は以前から、親が僕にしょっちゅう国際電話をかけてきて「日本の石鹸は泡が立たないのはなぜだ?」って聞いてきたんですわ。そのたびに「いやぁ、僕が使っている日本の石鹸はよく泡立つけどなぁ。まさか、スリランカの水と日本の石鹸の相性が悪いってこともないやろうし……」って返事していんです。

「しかも、袋から出したらすぐにカビが生えて腐るんやわ」と、オカンがブツブツ文句を言う。いったい実家で何がおきとるんや? 僕にとっては、大きな謎やったんです。

そんなわけで、オカンがタンスに大事にしまっていた例の石鹸を出してきました。見た瞬間、僕はわが目を疑いましたわ。どう頑張って見ても、石鹸とは別もの。それは石鹸ではなくて、なんと『切餅』やったんです。みんなで腹を抱えて大笑いですわ。

今回、スリランカへの旅に同行した学生たち。出発の前に、シンハラ語を特訓してたんです。一ヶ月前から、週一回2時間程度。みんな、短期間にもかかわらず、メキメキ力をつけてくれた。

で、現地にきたんやからその腕前を早速試すことに。事件を起こしてくれたのは松田君です。自他共に認めるアガリ性。僕の両親と会うなり、「ディスイズアペン」とどもりながら挨拶してくれた。本来ならば、『アーユボーワン』(命がたくさんありますようにという意味のこもったシンハラ語の挨拶で、どんな状況でも使えて便利な言葉)を言わないといけないところ。緊張しすぎて、馴染み深い英語が口をついて出てもうた。

さて、真面目すぎるところがある僕の両親は、どうリアクションを取ればいいのかわからず、引きつっている。通訳担当の僕に、目で「なんとかせぇ!」と訴えかける。ここは正直に、「松田君はあまりにも緊張していたから、いちばんよく覚えている英語のフレーズが出てもうたみたい」と説明するしかない。それを聞いた瞬間、両親も含めてみんな大笑い。松田君も、照れが取れて大笑い。

それで味をしめたんでしょうね。スリランカ滞在中、わざと自己紹介で「ディスイズアペン」を繰り返し、緊張した空気を一瞬にして和ませるプロになってましたわ。結局、滞在中にいちばんたくさん友達をつくったのも、いちばんたくさんシンハラ語を覚えたのも、そしていちばんスリランカの女性にモテたのも、松田君やった。こうして、僕の田舎では「ディスイズアペン」が伝説になりました。

帰りの飛行機のなか、松田君の隣に座った僕は、ちょっと酒がまわってきたのも手伝って、日本でのある初体験を告白しました。それは、初めて日本の女性と向かい合ったときのことですわ。それはそれは、勇気がいりました。

僕は日本語学校を、一度も休んだことがない。ひとつには、日本語学校の豊国先生のことが好きやったからやけど、もうひとつ大きな理由は、通学中に会う謎の美女。

その当時、僕は路面電車で日本語学校まで通っていた。謎の美女とは、その電車のなかで会ってました。顔を合わすといつも、素敵な笑顔で笑いかけてくれる。ずっと彼女を意識してました。彼女と会えることが楽しみで、気がついたら毎日同じ電車の同じ車両に乗るよう心がけていた(いまから考えると、軽いストーカーですわ)。

彼女の笑顔が、日本に来たばかりの僕の不安を吹き飛ばしてくれていたんです。そうです、僕は、恋をしていた(うわ、照れくさ!)。でも、当時の僕はむちゃくちゃ純やった。だって、だってですよ! その年、知らない女性からもらったバレンタインチョコレートを、ほかしたりしてましたからね。不潔や!って。

僕は、彼女をデートに誘うための日本語を、一生懸命暗記しました。豊国先生が親身になって協力してくれた。暗記しだして1ヶ月。いよいよ、実践の日を迎えました。鏡の前とか、鴨川のほとりで何回も練習した日本語。しかし、いざとなると、やっぱりドモりまくる。声が震える。

「コンド・アソビニ・イキマセンカ?」
「ええ? どこどこ?」
(やったー! 彼女の表情は嬉しそう)

「キョウト・コウベ・オオサカノ・ドレカ。エランデクダサイ」
「神戸がいいな~」
「OK、コウベ。ワタシノ・トモダチト・ガールフレンドト・ボクト・アナタト。ヨニン」
「神戸のどこに連れて行ってくれるんですか?」
「ハーバーランド」
「うん」
「メリケンパーク」
「うん」
「チュウカガイ・ガイジンボチ」

よし、順調や! 心のなかで叫びながらも、震える声での説明が続く。そのとき……

「パシッ!!!!!」
「イタっ!!!」

突然、ビンタを食らいました。調子乗りすぎたのか、そもそも口説いてはいけなかったのか。理由はわかりません。結局、彼女に深々とお辞儀をして去りました。それ以来、電車の時間を変え、彼女とは二度と会いませんでした。

僕は、あのとき暗記した日本語を、いまでもちゃんと覚えています。もし彼女が、大阪、とか京都、とか答えた場合でも対応できるように、それぞれの台詞も暗記していたんです。「金閣寺がきれいですね。雪のなかの金閣寺もきれいです」ってな感じでね。

ビンタの事件があるまで、「彼女と今日も目があって、微笑んでくれた」などと逐一報告していた僕が、そのことを全く話題にしなくなった。周りがずいぶん心配してくれましたが、かたくなに沈黙し続けました。ビンタされた理由もわからず、だれに相談することもなく、時間だけが流れた。結局、独学でビンタの理由が解るまで……。

いったいなぜ僕はビンタされたのでしょう?聞きたいですか。ここまで話を引っ張っておいて言わないわけにもいけないでしょう。僕はなんと、神戸の案内する場所のひとつとして考えていた「外人墓地」を「ガイジンボッキ」って言うてしまっていたんです。

いや、しょうもない話でスイマセン。でも、それからというもの、失恋の後遺症っていうか、トラウマっていうか、失敗したくないという気持ちが先に出て、いいなと思う女性を目の前にすると制御不能になるんです。

ビンタの話をきいて、松田君とふたり、涙を流しながらの大笑い。今回の旅の笑い収めでした。

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