つよく、優しく、しなやかに、美しく ・・・「民 際」 と 「共 生・共笑(ともえ)」 な 眼 で 世 界 の 中 の 日 本 に 思 い を は せ て ・・・

84 おばあちゃんを思い出す 【にしゃんた こらむ】

テレビをつけたら、必ず戦争の映像が流れてますね。スリランカもときたま登場します。僕にとって戦争は、身近なものです。

スリランカの同級生は、たくさん内乱に巻きこまれました。同じラグビーチームのメンバーだけでも、レギュラーの半分はもう生きてない。目を失ったり、足を失ったりしている人もいます。僕もまわりの人に「スリランカに残ってたら死んでたわ」ってよく言われました。でも、いまのスリランカはすっかり平和になって、言葉では言い表せないぐらい嬉しい。町中のあちこちにあった検問のバリアを見るたびに、気分が悪くなっていましたからね。

そんな環境で育ちましたから、戦争のことになると、同年代の日本人よりも敏感です。ときには鳥肌が立つときもあります。
 ●
僕が卒業した大学は、日露戦争末期の1908年、陸軍第十六師団が設立されたところにあります。敗戦によって米軍に接収されましたが、その当時の名残は、いまもあちこちにあります。たとえば道についている、第一軍道、第二軍道、師団街道といった名前もその当時の名残。僕が通っていたお風呂屋さんも『軍人湯』っていう名前のところで、当時の軍人さんが使ってたんですわ。

山口県で以前宿泊していた場所は、寺内元帥(南方軍総司令官)の生家の跡地やった。そういえば、そこの庭に立派な杉苔が無造作に生えていて、剥がしてもって帰ろうか、やめておこうかって、よく自分と闘ってましたわ。結局良心が勝ってしまって、京都の町屋の坪庭用の苔を高い金を出して買ったんやけど、寺内元帥の生家の敷地内に聳え立っていた、韓国から(もちろんタダで)かっぱらってきた戦利品を入れるためにつくった立派な図書館を見るたびに、複雑な思いでした。

鹿児島に行ったとき。鹿児島市内から桜島へ渡るフェリーに乗ると、進行方向に向かって富士さんそっくりの山のシルエットが見えました。同行していた鹿児島の平野さんに「富士山に似ていますね」って言うと、「そうなんです。薩摩富士って言うんです」って教えてもらいました。この近くの知覧というところに、神風特攻隊の基地があったんです。神風特攻隊というのは、いまでいうなら自爆テロと同じ、若者たちが片道の燃料を積んで飛び立ちました。出撃前には薩摩富士に対して敬礼をするような人も多かったそうですわ。

いまでは当たり前に感じている道幅の広い御池通りも、それは最初から広かったわけではなくて、戦車を走らせたり、軍事用飛行機の滑走路として使うために広くしたらしい。当時、知り合いがこの御池に面したところに家を何件か持っていて、ある日家賃を回収しにいったら、家が跡形もなかったらしいです。いまでは穏やかな寺町通りにも、軍事用の部品をつくる工場がたくさんあったらしい。
 ●
日本のあちこちに戦争の傷跡があります。日本軍はスリランカを空爆したけど、日本にはスリランカ軍による傷跡はない。だから僕は、日本に残っている戦争の傷跡をどこか余計に客観的に見れているかもしれない。ひとつ気づくことは、日本には加害者としてのも傷跡があるはずやのに、クローズアップされるのは、被害者としての傷跡だけってこと。広島も長崎も、全国にある護国神社を歩いても、はたまた、京都の舞鶴にある引揚記念館を見ても、日本人の被害者像しか描かれていない。

旧ソ連で拘留を受けた兵隊さんの厳しい扱われ方とか、息子を日本で待つ母親の悲しさについては描かれているけど、そもそもなんで日本人が旧ソ連に行ったんか、説明が欠けてます。韓国や中国から強制連行されて働かされた人がどんな運命をたどったか、説明が欠けてます。おせっかいかもしれないけど、戦争は過去に事実としてあったことで、悪いことをしたし、悪いことをされましたっていう、偏りのない事実を記録することが、国を超えた平和に繋がるいちばんの近道のように思います。
 ●
突然ですけど、僕は町屋に住むようになってから、骨董品蒐集家になりかけてるんです。何でかというと、町屋にはプラスチック系のモノがやっぱり似合わへんような気がするから。スリランカ人やけどね、そう思いますわ。だから骨董品屋さんを回ることが多いんです。そのなかで、面白い発見をしました。

それは、日本のモノの素材が、時代によって変わるということです。たとえば、湯たんぽとか煙管、水筒やすき焼き鍋も、見ていると鉄でつくられていたり、陶磁器のものがあったり。どうも戦争に突入したときに、国中の鉄が没収されたらしい。代用品として、鉄の代わりに陶磁器で造るようになった。

もうひとつ見つけた興味深いモノは、分銅なんです。3つの材料でできていました。ひとつは鉄製。ひとつは陶製。ひとつはジュラルミン製です。どれも、日本の「時代」を表してますね。比較的平和な大正時代の分銅は鉄製でした。昭和10年あたりから鉄は貴重品になったので、陶製に切り替わった(岐阜製)。そして、3つ目のジュラルミンは、敗戦後のもので、墜落した戦闘機とか爆弾機の残骸でつくっていたらしい(沖縄製)。

そんな話を聞くと、僕は陶製のモノに、どこか死を予感させられます。そして、ジュラルミン製のモノは、惨劇の傷跡の証に見えてならないです。
 ●
またまた突然ですけど、僕は、嵯峨・嵐山で大学時代を過ごしてたんです。原アパートってところに住んでいて、そのアパートの敷地内には原さんも暮らしていた。僕は原アパートに住んだ最初の留学生で、まわりの方にすごく大事にしてもらいました。

で、そこには原さんのおばあちゃんも住んでいた。おばあちゃんは前から足が悪くて、家から出てくることはあまりありませんでした。たまに日向ぼっこをしていているところを見るぐらい。目が合うと、最初はビックリされていたんですけど、だんだん会釈をする仲になりました。

でもおばあちゃんの会釈は、ちょっと変でした。すごく、深々なんです。それで、半年ぐらいたったある日、家を出ようとしたときにおばあちゃんが、僕を呼びつけはった。

「あのーすみません」
「ああ、こんにちわ」
「あのー」
「はい」
「・・・・・・・・・・・」

呼びつけたものの何か言いにくそうな雰囲気。そして、静かな時間が過ぎて、おばあちゃんが言葉を発した。

「あなたさんに、謝りたいことがありますねん」
「そんな。なんもあるはずないじゃないですか」
「私は、いくら戦時中とは言うても……悪いことをしました」
「???」
「竹槍で、あなたさんらを刺す練習をしていたんや」
「???」
「かんにんしとくれやす」
「……とんでもありません。大丈夫ですよ」

そのときはそう答えたものの、あまり意味がわからんかった。竹槍を持って軍事訓練を受けてたってことを、外国人の僕を見たときに謝りたかったんですね。僕がそのことを理解したころには、もうおばあちゃんは亡くなってはった。

僕のなかには、たくさんの戦争の思い出がある。でも、そのときのおばあちゃんの言葉ほど、心に強く訴えかけたものはなかった。

ひとつだけ、僕が心のなかに刻みつけたことは、おばあちゃんみたいな気の優しい方を巻き込む戦争は、絶対にしたらあかんってことですわ。

コメントする

お仕事のご依頼などは...

マネージャー

下中(しもなか)迄

■E-mail■

info@nishan.jp

■電 話■

06-6886-1175

■携帯電話■

090-6670‐1020

■F A X■

06-6886-1176

お問合せフォームはこちら

2011年12月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31